美しい夕日を、美しいと頭で考える前の美しさ──
判断の前にある生の体験
普段、私たちは物事を判断したり、評価したりしながら経験を受け取る。しかし純粋経験は、善い悪い、好き嫌い、正しい間違いといった概念をまだ介さず、ただ「今ここで起こっていること」をそのまま体験している状態を指す。
たとえば、夕日を眺めながら、「私は夕日を美しいと思っている」と把握しているときは、すでに私(主)と夕日(客)が分離している。そうではなく、まるで私と夕日が溶け込んで一体となっているような、まだ言語化もされる前の澄んだ経験状態のことを純粋経験と言う。
西田幾多郎は次のように書いている。
たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。──真の純粋経験は何らの意味もない、事実そのままの現在意識あるのみである。
西田幾多郎『善の研究』
主客未分という境地
純粋経験のあとで、思考を通って主観と客観が分かれる。この思考を通す前、主観と客観とが分かれる前の、私と夕日とが一体となっているような状態を、主客未分と呼ぶ。
通常、私たちは「私」と「世界」を分けて認識している。私がここにいて、世界がそこにある。私が見る者であり、世界が見られるものとなる。
しかし、純粋経験においては、この境界線が消える。見る者と見られるものが一つになり、体験そのものだけが存在する。
この主客未分の状態にあることによって、純粋経験の境地に立てる。
禅の瞑想などが、私と世界とが一体となっているような感覚に至るものの代表例として挙げられる。そこでは、「私が瞑想している」という自覚すらも消え去り、ただ瞑想という状態だけがある。
日常の中の純粋経験
純粋経験は、特別な修行や悟りの境地だけを指すのではない。日常生活の中にも、その瞬間は訪れている。
わかりやすく言えば、美しい音楽のなかに浸り込むことによって「私が音楽を聴いている」という思考すらも通さなくなることがあるように、判断を加えず、あるがままを感じる体験が、純粋経験に近い状態と言える。
子どもが遊びに夢中になっているとき、アーティストが創作に没頭しているとき、スポーツ選手がゾーンに入っているとき──これらは、自意識が消え、行為と一体化している状態と言える。「私がやっている」という感覚がなく、ただやっていることそのものがある。
しかし、大人になるにつれて、私たちはこの純粋な体験から遠ざかっていく。常に判断し、評価し、分析する習慣が身につき、「ありのまま」を受け取ることが難しくなる。
純粋経験とは、その失われた直接性を取り戻そうとする試みでもある。
言葉になる前の世界
純粋経験が示すのは、「言葉になる前の世界」だ。私たちは、言葉によって世界を理解し、整理し、共有する。しかし、言葉を介した瞬間、体験は既に変質している。生の経験は、言語化の網目からこぼれ落ちていく。
西田幾多郎が問いかけたのは、その言語化以前の、思考以前の、分離以前の世界に、どうすれば立ち返ることができるのか、という問題である。それは哲学的な探求であると同時に、私たちがどう生きるかという実践的な問いでもある。
判断を手放し、評価を保留し、ただそこにあるものをそのまま受け取ること。純粋経験とは、頭で理解することではなく、全身で体験することへの誘いなのかもしれない。
関連用語 : 無常観