「知っている」や「無関係」という思い込みによる壁──
知らないのではなく、拒んでいる
人は、自分の理解や興味の枠を越える情報や価値観に触れたとき、そのことを深く考える前に、「意味がない」「くだらない」「自分には関係ない」と処理してしまう。
その「入力拒否」の境界線こそが、バカの壁と言える。物理的な壁と同じように、この壁は情報を遮断し、思考を閉ざす。
ただ、物理的な壁との違いは、この壁が目に見えず、本人さえ気づいていないことが多いという点にある。
人は、自分が理解できないものに出会ったとき、そのことを理解しようとする前に、無意識のうちに排除している。その自動的な防衛機制が、バカの壁を生み出す。
「わかったつもり」が壁を高くする
この壁は、個人の知識量や頭の良し悪しとは直接的な関係がなく、自分が「わかったつもり」になっている部分にこそ、壁はより強固に現れる。
対象を粗い解像度で眺め、「もうそのことは知っている」と思い込む。その瞬間、脳の学習スイッチはオフになり、それ以上の探求は停止する。
養老孟司は、ある大学での実験を例に挙げている。
夫婦の妊娠から出産までを追ったドキュメンタリー映像を学生に見せた際、女子学生の多くは「新しい発見があった」と感想を抱いた一方で、男子学生は「保健の授業で習ったようなことばかりだ」と一蹴したという。
男子学生は、「男は出産できない」という前提ゆえに無意識のうちに情報の入力を遮断し、「もう知っている」という壁を作ってしまったと考えられる。
知識があることと、理解していることは別だ。むしろ、知識があるがゆえにバカの壁は高くなる。
安心のための防壁
正しさや常識、あるいは専門性は、ときに自分たちの思考を守るための防壁として機能する。
バカの壁があるからこそ、人は情報の洪水に溺れることなく、一貫した世界観の中で安心して生きられるという側面もある。
すべての情報を受け入れ、すべての視点を理解しようとすれば、心は混乱し、アイデンティティは揺らぐ。
だからこそ、脳は自動的にフィルターをかけ、自分の世界観に合わない情報を遮断する。
ただ、その安心と引き換えに、他者の言葉や異なる世界を遠ざけてしまう。
話しても話しても議論が噛み合わないとき、あるいは、主張が平行線をたどるとき、そこには論理の問題以前に、この「認識の壁」が立ちはだかっているかもしれない。
現代社会で増殖する見えない壁
現代のデジタル社会において、バカの壁はより巧妙に、そして強固になっている。
アルゴリズムによって自分好みの情報だけが届けられる仕組みは、いわばシステムが自動的にバカの壁を構築しているようなものかもしれない。
自分が信じたいものだけを見、信じたくないものを「デマ」や「無価値」として切り捨てる行為は、現代的な「壁」と言える。
SNSのタイムラインは、自分と似た意見ばかりで満たされ、異なる視点は遠ざけられる。その結果、壁はますます高くなり、他者との対話は困難になっていく。
バカの壁とは、相手の問題というよりは、自分自身の認識の問題と言える。自分がどこまでを「世界」として受け取っているのか。その限界を示す指標が、この言葉なのだ。
自分の内側にある壁を完全に取り払うことは難しい。しかし、「今、自分は壁を作って情報を拒絶していないだろうか」と自問するだけでも、バカの壁の向こう側にある景色を覗き見るきっかけになるかもしれない。