自ら選択し、主体的に生きることが、存在を形作る──
決められた意味を持たない存在
実存という考え方の根底には、人間は生まれながらの「本質」や「役割」が定められていない、という認識がある。
石には石としての性質があり、鳥には鳥としての生き方がある。しかし、人間にはあらかじめ決められた意味がない。
この発想は19世紀の思想家キルケゴールやニーチェに端を発し、20世紀にサルトルやハイデガーといった哲学者によって広く語られるようになった。「実存は本質に先立つ」という言葉が示すのは、人間はまず存在し、その後に自分自身を作り上げていくという事実だ。
肩書きや性格、過去の経験よりも、「今、どう生きているか」がその人を形づくる。実存の哲学は、その立場に立っている。
管理社会の中で意識される自由
実存が強く意識されるようになった背景には、近代社会の変化がある。
科学技術の発展や資本主義によって、社会がより管理的になっていくなかで、人が自由に生きることと、その自由に伴う責任が問われるようになった。
工場労働者は時間で管理され、学生は成績で評価され、市民は統計の一部として扱われる。人は番号や数値に還元され、システムの歯車として機能することを求められる。
そうした時代にあって、実存の哲学は、「あなたは本当に、ただの歯車なのか」と問う。
日々の小さな選択や行動の積み重ねが、そのまま実存になる。朝、何時に起きるか。誰と話すか。何を食べるか。それらはすべて、自分自身を作り上げていく行為となる。
自由と責任の重さ
実存の考えでは、人は完全に自由であると同時に、その自由の責任も引き受けている。選ばないという態度さえ、ひとつの選択となる。
不安や迷いが生まれるのは、自由から逃げられないからでもある。
自由とは、心地よいものだけではなく、むしろ重荷となる。何を選んでもいいということは、何を選んでも自分の責任だということでもある。
失敗したとき、環境のせいにすることも、他人のせいにすることもできない。すべては、自分が選んだ結果と言える。
サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と表現した。自由から逃れることはできない。
逃げようとすること自体が、逃げるという選択であり、この逃れられなさが、実存の根底にある「不安」を生む。
誰のせいにもできない感覚
日常の言葉で言えば、実存とは「自分の人生を、誰のせいにもできない感覚」に近い。どんな立場、状況であっても、自らで選択し、存在を立ち上げていく。
なにも考えず、流されるままの時間ではなく、迷っているとき、不安が生じるとき、立ち止まっているとき、実存という言葉はそこにある。
選ぶことの苦しさ、自由であることの重さ、責任を引き受けることの孤独──それらすべてが、生きているということの証になる。
実存というのは、人生に意味を与えてくれる便利な概念ではなく、そこには、意味は自分で作るしかないと突きつける厳しさがある。
しかし同時に、その厳しさの中にこそ、本当の自由があるのかもしれない。